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金峯山寺@奈良 - Kimpusen-ji



金峯山寺は、奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗の本山。
本尊は蔵王権現、創立者は7世紀に活動した伝説的な山林修行者 役小角と伝える。

金峯山寺の所在する吉野山は、古来桜の名所として知られ、
南北朝時代には南朝の中心地でもあった。

金峯山とは、単独の峰の呼称ではなく、吉野山と山岳霊場を包括した名称であった。

吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。
吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及び
これら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。

金峯山寺とは本来、山上山下の2つの蔵王堂と関連の子院などを含めた総称であった。

金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で、その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、
目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表し、片足を高く上げて虚空を踏むものである。

インドや中国起源ではない、日本独自の尊像であり、密教彫像などの影響を受けて、日本で独自に創造されたものと考えられる。
修験道の伝承では、蔵王権現は役行者が金峯山での修行の際に感得した(祈りによって出現させた)ものとされている。

修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の2つに大きく分かれた。
本山派は天台宗系で、園城寺(三井寺)の円珍を開祖とする。
この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派(園城寺傘下)の聖護院(京都市左京区)である。

一方の当山派は真言宗系で、聖宝を開祖とする。
吉野を主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院(京都市伏見区)であった。
金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かった。

中世の金峯山寺は山上・山下に多くの子院をもち、多くの僧兵を抱え、
その勢力は南都北嶺(興福寺と延暦寺の僧兵を指す)にも劣らないといわれた。
南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に移り、南朝を興したのにも、こうした軍事的背景があった。

1614年、徳川家康の命により、天台宗の僧である天海が金峯山寺の学頭になり、
金峯山は天台宗の傘下に置かれることとなった。

近代に入って修験道の信仰は大きな打撃をこうむることとなった。
1868年(明治元年)発布された神仏分離令によって、長年吉野山で行われてきた神仏習合の信仰は禁止され、
寺院は廃寺になるか、神社に名を変えて生き延びるほかなかった。

1872年(明治5年)には追い討ちをかけるように修験道廃止令が発布され、
1874年(明治7年)には中心寺院の金峯山寺も廃寺に追い込まれた。

その後の政府の施策の変化や、修験道側からの嘆願により、1886年には天台宗修験派として修験道の再興が許され、
金峯山寺は寺院として存続できることになった。

ただし、山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、金峯山寺とは分離され、21世紀現在に至っている。

第二次大戦後の1948年(昭和23年)、天台宗から独立して大峯修験宗が成立し、
1952年(昭和27年)には金峯山修験本宗と改称、金峯山寺が同宗総本山となっている。


wikipediaより